
活動を始めた90年代からヴィジュアル系において先陣を切ってシーンを率いてきたKISAKI。
彼自身La:Sadie’s、MIRAGE、Syndrome、Phantasmagoria、凛-the end of corruption world-をはじめとした数々の伝説的バンドのみならず、多くのヴィジュアル系バンドを世に輩出したレーベルMatina、UNDER CODE PRODUCTIONでは代表を務めた。
そして昨年には自身の音楽活動30年yearとして華々しい面子の揃ったライブの敢行、3部作のアルバムリリース。
――しかし、彼自身が時代を彩っていくのとは対照的に日々投げつけられる誹謗中傷の数々や、彼の音楽活動の中では様々な苦悩や試練が立ちはだかっていた。
今まで語られなかった、いや、触れられてこなかったKISAKIの部分を当時の想いと共に聞いていく。
——この一年間は休めましたか?
去年に比較したらですね。コロナ禍の制作とか、30周年で発売した三部作制作の時に比べたらだいぶ休めました。
——あの三部作も結構ギリギリまで制作練られていたという。
そうです。コロナ禍があったから曲が自分の中で生まれて、30周年までに自分が出来ることを考えたんですけど、コロナ禍で大分出来ないってなって。じゃあ何をするかってなった時に、作曲ばかりしているのも煮詰まってきてしまったんです。スタジオはコロナ禍でも開いていたんですね。それでレコーディングを始めたのがきっかけで。MIRAGEのAKIRAに歌ってもらって、その時に「そういえばMIRAGEは25周年ですね」ってAKIRAから一言が出て。MIRAGE結成25周年、Matinaの設立も同じく25周年。だから復活というミッションを自分に課せて、30周年の自分のソロのアルバムを作りながら同時にMIRAGEのフルアルバムやMatinaのベストアルバム盤を作ったりしました。
——ライブもありました。
そうですね。多くはやっていないけど。5本くらいやりましたね。合間にコロナで中止になったのもありました。自分の中では初め東京と大阪その二本だけの予定だったんですけど、お客さんが思ったよりも来ていただいたっていうのもあったし、誘われたりというのもあって25周年yearとしてMIRAGEとMatinaの看板背負ってやろうってなりましたね。そしてそのまま僕のバンド活動30周年に繋げていったって感じです。
——昨年の30周年の時には、「この30年を振り返って」というインタビューが多く、自分もいくつか拝見しました。KISAKIさんの歴史を振り返ってみると、バンドが始まっては終わって、始まっては終わってという感じで。次こそは!!というより、そういうタイミングであったというか。ターニングポイントがKISAKIさんの人生の中で多いのではないかと感じました。
僕は結構この30年の中でも色んなバンドで活動してきた方だと思うんですよ。多分8バンドくらい?でも、1つ1つのバンドを解散したら自分の表としての活動を辞めるくらいの気持ちでやっていたんで。
——完全燃焼してですね。
そうですね。完全燃焼して自分をしっかり出し切った後にリセットして、また新たなバンドを始めるという。ただ、そのスパンが人よりも短いから(笑)。
——所謂『3年伝説』ですね(笑)。
『バンドクラッシャー』って言われたり。でも、バンドでやったことを次に生かす、常にアップデートはしていけていたと思います。
——私自身バンドクラッシャーという風には思っていないのですが、でも言われるじゃないですか。KISAKIさん的には言われていることに関して思うことってあったのですか。
思うところというか…もう言わせておとけと言う感じですね。僕は長く続けることだけが別に凄いとは思わないから。1つのことをだらだら続けるというより、僕らが納得のいく音楽活動を続けることを優先にしていたから。僕はバンドメンバーが脱退したりするときに引き留めることをあんまりしていないんですよ。一回言う人間は、二回目も言ってくるんで(笑)。当時は悩みましたよ、「なんで僕のバンドはこんなに長く続かないんだろう?」って。」って。解散するまでずっと、ずっと思っているから自分の人間性に問題があるんだなって思って、バンド人生自体諦めかけた時もありました。
——色んなバンドの始まりと終わりのストーリーとか、エピソードを見ていくと、メンバーさんから一緒にやりたいんですっていうお声がけから始まったバンドもありますよね。
多いですね。どちらかというとある程度出来上がったアーティストと新しいものを作り上げるんじゃなくて、これからの若手と一緒に新人としてやることが多かったかな。その成長過程を一緒に見ていくというか、一緒に育っていくというやり方が自分には合っていたのかなと。それが楽しかったですね。情熱があれば限界は突破出来るんです。
——なかなか居ないと思うんですよ。若手からKISAKIさんに一緒にやりたいと言っていくのは。でも皆KISAKIさんとやりたいと言う。KISAKIさんの創り直すというやり方がやっぱり良いというか。
過去を引きずるんじゃなくて、最初からって。変な話そっちの方が楽しいんですよね。でも自分のKISAKIという知名度だけは上がっていっているというのは痛感していますから、その中でも新人バンドとして30年やっていたという感じはありますね。
——スタートがやっぱり誘われたりというのが多かったわけじゃないですか。それを離れていくって一番悲しいストーリーですよね。
そうですね。やりましょうって言ってくれて、一緒にやって、ある程度一から育ってきたメンバーが抜けて、その抜けたメンバーがまた新たに活動すると、かっこいいに決まっているじゃないですか。そこでぶつかるというか、いい気持ちはしなかったというのはありますけど。でもそれもLa:Sadie’sの時に経験したので。別にもう辞めたいなら辞めていいよって感じですね。
——1回じゃない、またかって感じなんですね。さらっとおしゃってますけど、相当メンタルが強いというかそれでもやりたいというのがあるんですかね。
やりたいというか、やらないといけないという強迫観念みたいなのが当時はあったんですよね。使命感というか。La:Sadie’sの時なんか当時19歳だったんですけど、大阪で一番すごいんだって、インディーズですけど自信もあったし。解散した後もまたバンドを作って続けるということしか考えて無かったんです。辞めるという選択肢は無かったですね。だからすぐにMIRAGEを結成して。La:Sadie’sの解散ライブからMIRAGEの初ライブまでって2週間くらいしかないんですよ。
——MIRAGEが始まると怒涛の勢いでの活動だったというのが印象にあります。キャパ150の寝屋川ヴィンテージに1000人来たとか、入る入らないの問題じゃないというか(笑)。
お客さんを呼べる自信はあったけど、あえて100人規模のキャパで無茶苦茶なライブをしてやろうって思って。当時は僕の感情の話ですけど、カッコいいライブというよりは勢いのあるバンドを作りたくて。だからそういう無茶苦茶な戦略を立てていたんです。
——KISAKIさんって若い時から経営能力というか、プロデュース能力がすごかったんですね。
ファンの子の気持ちになったら、そういうのって早急にチケット取らないと!ってなるじゃないですか。
——見つけた!!っていうあの感覚ですよね。
昔ってインディーズバンドを自分で発掘して追いかけて一緒に育っていくっていう流れがあったんですよ。僕もインディーズバンド大好きですし、そういうバンドを見てきた中でその人たちが歩んできていない道を歩んでいかないとっていうのもありつつ。色々考えて戦略練っていましたね。
——そこからマーケティングであったりとかを勉強していった感じだったのでしょうか。雑誌の編集部には直接連絡掛けて自ら売り込んだというような話も聞きましたが。
そうですね。当時は分からないじゃないですか(笑)。どうやったら取材って、インタビューってしてもらえるんやろって。La:Sadie’sの時も僕らこんな人気あるのに、僕らより売れていないバンドがなんでこんな雑誌に載れているのかずっと不思議で。当時そんな大人の力が働いているとか考えていないんで、あそこは忖度や!っていう感じにずっと思っていたんです。だから編集部に直接電話して、「どうやったら表紙になれるんですか?」っていうような感じのことを営業の人に言って。「表紙っていくら払ったらなれるんですか?」って聞いたら「表紙は売ってません」って言われたりとか(笑)。でもそれからSHOXXの営業の人と仲良くなって、そこから出してもらえるようになったりしましたね。
——きっかけ、ご縁ってどこにあるか本当に分からないものですね。
そうなんですよ。バンドも全部縁だと思っていて。MAKEもこの一周年で僕を選んでくれたというのも縁だと思ってるし。MAKEを立ち上げるときもたまたま編集長と「最近ヴィジュアル系の誌面が少なくなって寂しいよな」って話をしていた時に、創刊号の話を言ってくれて、じゃあ僕が出来る限りのことはするよって話になったり。
——実は1年続くかどうかだという程の話だったんです…。創刊号はKISAKIさんのお力でなんとかなりましたが、それでも当時は3か月に一回でもちゃんと出せるか…。
今の世の中的に紙媒体って、需要が少ないじゃないですか。でも僕らにとっては必要なんですよ。
——SNSにはないものがあるという。
やっぱり紙面は、10年後とかでもヴィンテージものみたいに見返したり出来るんですよね。懐かしい!ってなるんですよ。もちろん、ネット媒体も大事にしますけど。でもやっぱり紙媒体。当時初めてメディアに出してもらった時の気持ちとかを思い出させてくれるのはやっぱり紙媒体だなって。
——今音楽ジャンルって様々なものがあるじゃないですか。でも、ヴィジュアル系というジャンル程紙媒体を重要視しているというか、大切にしているというか特化しているのって他にないと思うんですよね。
ヴィジュアル系ってやっぱり、ヴィジュアルを見せてナンボなところありますしね。
——そこを関係者としてご理解していただいているというか…。レーベル設立とかがあるなかで自分だけでなく「この子たちを食わせていかなきゃいけない」という経験があったからこそ、文化というか媒体に関しても残していかなきゃいけないという想いがあるのかなと感じます。
それはあるかもしれません。常に進み続けていることですし、僕もお遊びでやっている訳ではないので。でも楽しんでやっている部分はある。楽しみっていうか、バンドって評価されていない、自分が評価されていない部分では楽しめないと思うんですよ。まずやっぱり評価されないと自分の課題もバンドの進むべき道も見えてこない。例えば、雑誌の表紙出ました、ライブやりました、じゃあ次の目標は?って。人間って次々に目標重ねていってそこから自分のピークに達した時にやっと自分は引退ってなる人も多いんやろうなって思いますね。そのピークはレベルの差だと思います。
——引退の話題が出たところでなんですが、表舞台からの引退もKISAKIさん自身ありました。
2回ですね。ぶっちゃけ今だから話しますけど、引退って言わざるを得ない状況だったんですよ。それ以降皆「KISAKIって何回も引退するやん」みたいに言われる事が多くなったな(笑)。いやしてないからって。解散とかは何回もありますけど、解散=KISAKI。もう辞めるんやみたいな雰囲気に勝手にそんな感じになっていくから。
——解散したから業界に手を触れたらいけないみたいなことは無いですからね。
そうなんです。でもなんか手を触れたらダメみたいな感じになるんですよ。
多分心はもう擦り切れているっていうか、叩かれすぎてこの業界に居る意味が分からないってなったんですよ。
——KISAKIさんってバンドマンの間からも結構色々言われがちな気が。
実際に会って話したら全然イメージ違うっていうのはよく言われますよ(笑)。
——我々が「吹聴」されてしまっているんですよね(笑)。
でもその吹聴を逆に利用しようって思っていて。利用するっていう言い方もおかしいけど、マイナスからプラスの方がやりやすいことも多いし(笑)。
——凛第二章のときなんて一番なくらいに誹謗中傷って強かった時じゃないですか?
いやもう、ずっと凄かったよ。MIRAGE~Syndromeくらいの時が世の中に一番ネットというものが普及してきたし。今でこそそういうのも気にならなくなってきたけど、当時はネット掲示板とかに左右されたんですよね。
——そういうのって、気になって見てしまうんですか?
見ちゃうんじゃなくて、周りが報告してくるんですよ。しかも、別に僕の人間性を叩くというより、訳の分からん話で盛り上がっているんですよね。女遊びが激しいだとか。音楽と違う噓のネタでアンチが盛り上がっているというのが気分悪くて。それって人に相談できるものでもないし、ずっと自分の中で抱えてたんですけど。あるバンドを解散するとき、それを理由にメンバーが脱退したいというのがあったんですよね。遠まわしにですけど。でも、絶対ネットで僕がこういう風に言われているからそう言っているんやなっていうのが話聞いていると繋がってきて。そういう時は悔しいですし、こんなインターネット消えちまえって思った時もありましたね。でも結局、今考えたらそれは自分の実力不足。ちゃんとメンバーと向き合っていなかったのかなというのはあります。
——30年、割とずっと叩かれてきたじゃないですか。それってKISAKIさん的に「出る杭は打たれるぜ!」って感じなのか、結構すれすれなのか。
実際すれすれですよ。多分心はもう疲弊して擦り切れているっていうか、叩かれすぎてこの業界に居る意味が分からないってなったんですよ。当時は音楽が好きという気持ちもなくなっていたし、それでやっぱり大事なメンバーを失った時もあるし。言葉の暴力って、肉体より傷つくんですよ。
——自分もファンとしてKISAKIさんを追っていた時代がありましたが、やはり沢山叩かれているイメージというか、「ヤバい人なんだな」っていうのがどこかありました。
誹謗中傷の中には、意見だってあるんですけど、ただの悪口になっていくんですよ(笑)。叩かれていたらそりゃ「あの人ヤバい人なんだな」ってなると思うし、それを打ち消すにはそれ以上のライブをしていくしかないわけなんですよね。特に年齢を重ねれば重ねるほど次から次へと新しいバンドが出てきて、お客さんは新しいバンドに流れてしまう。そこでも僕には自分のバンドがあるし、レーベルの代表っていう肩書もあったし、色んな十字架を背負っていたわけなんで。自分のバンドが1番じゃないとみんながついてこないって思っていたんで必死でしたね。
——メンバーもいて、ファンも居て。孤独というわけではなくがむしゃらだったんですね。
いや、孤独は今でも感じることは多いですよ。それは自分がその道を選んだのだから仕方がないんですよ。自分がやろうと思ったことは成功させようと思うし、その分犠牲にしなければいけないものってたくさんあって。恋愛で色々断ち切ってきた事もありますし、家族であったりも犠牲にしたこともありましたね。一般的に感じるそういう幸せを僕は断ち切って『バンド』というものに捧げてきたんで。
——その生き方は辛いんじゃないですか。というか、そういう普通の生活をうらやましいと思ったりとかはなかったんですか。
周りからしたらKISAKIの方が羨ましいって言われるんですよね。ないものねだりというか。
——でもKISAKIさんの生き方ってそうそう出来ないですよ…。KISAKIさんが孤独を感じる時に支えてくれる人は居たのでょうか。
それがファンの子ですよ。「あの曲で僕は、私は救われました。」「僕の存在でベースを始めました」というような声が支えになりましたね。
——ファンから署名が集まったという事もありましたね。
Phantasmagoriaの時ですね。引退するって言った時に、署名が何万件か集まったんですよ。
——それきっかけだったんでしょうか、hideさんのメモリアルイベント出演は。

それもタイミングだったんですよ。2007年だったんですけど、解散して引退するっていう時に大阪国際交流センターってホールで終わったんですけど、それも有難いことにソールドアウトして、ツアーで全県まわって。このままバンドを辞めていくんだろうなって当時は思っていたんですけど、正直僕は執行猶予っていう実刑があったわけで。そことも向き合っていかないといけない、勉強していかないといけない。UNDER CODE PRODUCTIONも段々と注目を浴びていって、じゃあもっと大きくする為には…っていう頃ですね、署名がイベンターさんの方から3万くらいかな?届いたんですよ。「1日だけでもやりませんか」っていうのが。1日だけ、解散から一年後の8月31日に東京でやろうってまずメンバーに相談して。メンバーがそれに賛同してくれたんですよね。まだ時間あるけど、再開の時まで各々次に進めるように、出来ることがあったらバックアップするしって。それと同じタイミングなんですよ、hideさんのメモリアルイベントの話があったのが。「え!?!?」って。
——断る理由は無く。
そうですね。タイミングもすごく良くて。そのイベントが8月31日以降だったら出来てなかったかもしれないんですよ。8月に一本やるし、5月にそのメモリアルイベント。出演リストを見させて頂いたときに、その年の三月に復活したX JAPANもいますし、それにLUNA SEAも出る!って。僕はXをきっかけにバンドを始めたので、テンパるわけなんですよ。良いものなのか…でも僕は引退してるしって。そういう葛藤があって、そこから数日考えすぎて寝れず。尊敬している先輩にそれを相談したんです。そしたら「自分が憧れていたアーティストやhideさんに届くようにしっかりやってこい」、なんだったら永久に続けろくらいに。その人めちゃくちゃぶっきらぼうな言い方をするんですけど。そうか、引退というワードを気にしていたのは自分だけだったのかと。皆署名もしてくれて、集まってきてくれてるし。断る理由はないってなって、決めました。結局なんだかんだ言って、誘われた時からOKの気持ちはあったんですけど返事をした後ですね。じゃあどの曲をやるかって。X JAPANとかLUNA SEAに見合ったステージが出来るのかって。
——憧れだけじゃなくて同じステージに立つわけですもんね。
そうですよ。こんなことがあっていいのかってくらいの事ですから。当時インディーズではありえないWOWWOW生中継だったりだとかもあって、スタジアムでキャパ5万人で。僕らPhantasmagoriaって最高動員4000人くらいだったんですよ。規模が違いすぎるし、僕らは4000人集める為に必死にやってきて、それを5万人キャパの前でどんなステージングを見せられるのかって。でもいつも通りのライブをやろうって。そしたらお客さんが暖かかったというか。むしろ、そのイベント見た人がPhantasmagoriaのCDを買ってくれるという。僕らは終わってしまうバンドなんだけどみたいな…。再販のオーダーも来るんですよ。 当時の音源は全て無くなってしまったのでベスト盤を改めて作ろうってなって。2011年ですね、リリースしたのは。多分、Phantasmagoriaは自分の中で頂点なんですよ。メンバーにも恵まれていたっていうのもあるし。Phantasmagoriaで自分が今まで抱えていたモヤモヤが消えたっていうか消化出来たんですよね。やってて気持ちよかったし楽しかった。あと、サウンドコンポーザーを努めてくれていたJUNが 僕がレーベルで忙しい中メンバーをまとめてくれていたのが有難かったですし、彼がほかのメンバーをケアしてくれていたんだろうなっていう感謝はありますね。
——KISAKIさんって貪欲というか、先に当時電話で編集部に自ら売り込みに行ったと話されていましたが、そういう行動に移すマインドってどこから来るんですか?「売れたい」というところからですかね。
無知すぎて子供のような行動ですよね。やっぱり命をかけてやっているので「知ってもらいたい」っていう気持ちなんですよ。ただライブやっているだけだったらそれこそ口コミだけになってしまうし、今みたいにネットがない時代だったから。
——その意見聞いたらやっぱり「経営者」だなぁって思いますね(笑)。
自分のプロセスというか、そうやって設計立ててきたのかな(笑)。当時ライブの本数とか多かったですけど、対バンとかイベントとかやっぱりすごい相手にこだわってましたね。その中で1番を取らないともっと上に行けないし。
——現在でいうと対バンって割と仲良くやっていけそうなバンドで組んだりするじゃないですか。昔って割と「食ってやる」っていうか。
噛みついていくくらいの精神ですよ。仲のいいバンドであろうがアウェイであっても正々堂々ステージでぶつかり合って、そこで他のバンドのファンにどういう印象を与えられるのかっていうのをすごく考えていたから。
——だから昔のライブハウスの楽屋とかガッチガチの縦社会のイメージというか。逆に今のライブハウスの楽屋って割と会話の無い静かなおとなしい印象なんですよ。
僕らの時代も楽屋では僕もあまり会話はしてなかったですよ。どっちかというとあまり自分を安く売りたくなかったんで、他のバンドを無視しちゃう嫌なタイプだったかも(笑)。でもライブが終わって、打ち上げの時にやっと話すみたいな。お酒を交わしてやっとそこで心許して。また一緒にやろうみたいな。
——ステージングを観て思うんですか?
あまり人のライブは見ていなかったですけど、大体楽屋にモニターがあるんで。でも楽屋の雰囲気からなんとなく分かるんです。自分が観てカッコいいな、勝てるかな?っていうようなバンドがたくさんいましたよ。
——セルフプロデュースの感覚は昔から持っていたんですか?
昔は他力本願でした。Matinaというレーベルを立ち上げて、僕が立ち上げたあの頃はレーベルの真似事みたいな感じで作ったんです。それが思ったよりも巨大化していったというところで自分に自信を付けていったって感じです。能力は環境で変わると思うので。
——それこそ、最初にどこかのレーベルに入ろうとかいうのは無かったんですか?
入りたかったんですよ。けど、当時La:Sadie’sの時ちょうど事務所に入ろうかって時に解散が決まっていて、それこそ当時SHAZNAとかPENICILLINとかが所属していたティアーズ音楽事務所ってところに入ろうとしていたんです。そこの社長だった藤原さんという方に直々に会いに行って。行ったらなんちゅうデカいビルなんやってとこで。それも新宿のど真ん中で。当時はお金関係もかっこよく言うと大胆。当時は「なんでこんないい腕時計付けているんやろう、羨ましい」って思いながら(笑)。野心ですよね。
——1つの原動力ですよね。
バンド関係ないとも誰しも幸せになりたいとか人間って生きている以上欲はあると思うんです。無かったら、言い方悪いですけど勿体ない。かわいそう。絶対どんな人間にも生きる場所はあると思うんです。そこをぶつけるかどうかは本人次第。失敗したとしても、人間は更生出来ると思うし。俺はそれを何回も繰り返したし、散々叩かれても落ち込んで泣いて、でも立ち上がって。
——七転び以上ですね(笑)。
百転びくらいです(笑)。でも二百起きくらいはしてますね。
——辞めなければ失敗じゃないというか。自分たちをプロデュースするのをKISAKIさんはヴィジュアル系界に広めたのかもしれませんね。
それもあるかもしれないですね。諦めない気持ちを強く持つことが一番です!!
「僕はいったい何をしているんだ??」っていうような時代もありましたよ(笑)。
——物事を一個ずつ考えて積み立てていっているようで、でもそれは狙ってというより結果論というか。
そうです。今話していることは結果論です。全て破壊と再生の繰り返しですから。「僕はいったい何をしているんだ??」っていうような時代もありましたよ(笑)。また1からかって。でもそれを楽しんでいる自分も居るし、苦しいし、その葛藤が凄かったですね。今でもありますよ。2016年からソロアーティストして活動していますけど、KISAKIという名前がどこまで通用するのかが見てみたくて。
——ベーシストとしてですよね。
そうなんです。ボーカルではないし。じゃあ僕が歌えばいいかってやってみたりもしたけど、本職のボーカルになんてやっぱり勝てないし。どうしようって。どうやったら広げていけるだろうって。お遊びでやっていたらそこまで思わないと思うんですよ。そうだったら凛の時にきっぱり辞めたら良かったんじゃないかなって思うけど。でも30周年の時に一緒にやってくれた仲間たちが居て、30周年を無事に終えて自分のやってきた事に間違いは無かったんだなって思うし。仲間の大切さ、昔の仲間ともう一回一緒にステージに立てるという。
——まさに再集結という感じでしたよね。数々のストーリーを見てきて、KISAKIさん自身様々な呼び名が生まれてきたじゃないですか。「神」とか「カリスマ」とか。でも「不死鳥」という名も合いそうな感じがしますね。灰の中からまた蘇るみたいな。
すごいねそれ(笑)。でもバンドやってて辛い時期もあったし、そんなときに辞めたら悲しい、悔しいという気持ちしか残らなかったと思うんですけど。それを乗り越えたらって感じですね。
——乗り越えたらというか、その経験もあったからこそ昨年の三部作のテーマでもある『儚さ』という美しさも生まれたのではないでしょうか。
『儚さ』というのは僕がヴィジュアル系をやっている一つの人生観として一番大事にしているものです。だからさっきの「破壊と再生」もそうですけど。
——そして『Eternally』。
破壊と永遠というコンセプトをしっかり残しつつ最後のミニアルバムを制作しました。『輪廻転生』、、、そして破壊。30年やってきた中での気持ちの原点回帰という意味でそのシングル『破戒』は出して、最終日にはMV『Re_REQUIEM』を出しましたね。映画のエンドロールっぽく切なさと感謝が伝わるように、音と映像で仕上げてもらいました。
——時に言葉は薄れてしまう時もありますが、映像は褪せることがないので特に印象に残る作品となりました。全てを出した後、ファンからどのような声が届いたのでしょうか。
色々でしたね。ファンの子のDMとか見てますけど、アンチからの声もありましたよ。それも含めて自分を確立させているなと思う部分もありますし、なんていうかな、生きる力になっています。
——曲を生み出す人生観というか価値観というのはどこからなんでしょうか。
自分が求めている世界、理想郷に向けて歌詞とかは書きます。例えば恋愛でも、失恋の歌詞を書きましたって時にはどん底まで落ち込んで書くし。僕はとことんどん底まで落としますね。
——人間って、落ち込んでいるところもどこか美しいなって感じますね。
そうですね。そういうのを吐き出しても昇華させてくれる人間って周りに少なくて。言い方悪いけど失踪するとか、飛ぶとか。そういう人間も居るんです。バンドの黒歴史っていうのですね。僕自身はそういうのはしたくなくて。全部良いことも悪いことも自分が対峙してきたから。あの時の僕はこうしたな、あの時の気持ちを思い出せっていう風にもなるし、今の感情をあの時の自分にぶつけたいっていう、色んな感情のぶつかり合いがあるんです。その中で今考えている事は、次のステージのタイミングでは、中途半端な気持ちではやりたくない。ここぞというタイミングで、がっかりさせたくない、みんなが思い描いている以上の姿で帰ってきたいなと思ってます。
——想像ができないですよ。
僕もフリーでやってきて、一人で動けるからこそ自分をセルフプロデュースしていけばいいんですよ。好きなことだけをやっていけばいい。だから楽ですよ。全部良い辛さであって苦しくない。身体は辛いですけど(笑)。でも、心が疲れていないと僕としては生きている意味がないと思うんですよね。
——1つの人間ではあるんですけど、KISAKIさんそのものが作品のような生き方をされていますよね。
そうですね。30年以上活動してきて、叶っていない夢も沢山あるんですけど。自分が想像していない、想像も出来ないようなこともしてきたし。辛いこととか、苦しいこととか、すべて含めて段々強くなれてきたかなって。
——KISAKIさんが若いころに活動していた時代、90年代、そのあとのネオビジュアルと言われていた2000年代、そしてまた現在令和でヴィジュアル系というものがまた再燃しようとしている動きがあります。その流れを見て、昨年でKISAKIさんは一旦の区切りがついたわけですが、新しく動こうという気持ちはあったりするのでしょうか。
0%ではないです。けど、今の段階では、去年の30周年を終えて、今年の春テレビで特番をやって頂いて、今年は表に立つことはやめて自分の心と体をメンテナンスをしようと決めて。そういうのも含めて色々見つめ直す時間として今はいますね。生き残るのは適応出来る人間だと改めて初心に帰ってます。
——深呼吸の時期ですね。
そうですね。ただありがたい事に色々な話も頂いてます。
——活動が無くても現に今インタビューしてますから(笑)。ヴィジュアル系が好きという気持ちが、表に立つ立たない関係なしに人を動かすんでしょうね。

そうですね。ヴィジュアル系の音楽って、心の叫びというかメッセージ性が強いじゃないですか。一番強いんじゃないかなって思っていて。でも、それが上辺だけだと薄いんですよね。グッと伝わってくるバンドが居る、それが魅力なんですけど。それだったらヴィジュアル系じゃなくても例えば今流行ってる様なバンドとか、純粋なピュアな歌詞が刺さるとかそういうのもあると思うんですけど、僕はヴィジュアル系の捻った歌詞、色んな理解が出来る、そういうのが好きなんですよ。最近のヴィジュアル系のバンドは演奏もハイレベルで。メタル化して来てると思うんですよね。それは原点回帰だと思っていて。僕の中でX JAPANもヘヴィメタルで。YOSHIKIさんは「どう見てくれてもいい」って当時のTVとかでも言ってましたけど。2022年にYOSHIKIさんと一緒に写真撮ったりしたことが自分にとって力になってるんですよ。自信に繋がっています。僕はヴィジュアル系というバンドに入ってて、まず根本的な性格が変わったと思うんですよ。元々すごい人見知りだったし。一人で家でゲームとかしていそうなタイプ。
——陰キャタイプ。
そうですね。それがX JAPANと出会って、YOSHIKIさんがプロデュースしているバンドとか、ヴィジュアル系の雑誌を買うようになって、色んなバンドをみて。その時はインディーズっていうワードすら知らなくて。僕の中でインディーズもメジャーも無かったんですよ。雑誌載っているバンドはもう全部全部プロ!って(笑)。ここに追いつくにはどうしたらいいんだろうかってことでバンドを始めたんですよね。無知から始まることより強いことはないというか。多分それが壁にぶち当たってもやれてこれた理由なんでしょうね。
——昔は自分は陰キャだったという話でしたが、これがもし出会う音楽がヴィジュアル系ではなくてポップスとかだったらここまで強くはなれていなかったんでしょうか?
すぐ辞めていたと思います。やっぱりヴィジュアル系っていう、髪の毛立てて、衣装をガチっと着て、メイクもしてそこで気持ちというか、人格から変われる。そのスイッチみたいなものがカッコよくて、僕と相性がすごく良かったんですよね。当時小学校6年生だったんですけど、やっぱり見た目から入るじゃないですか。見た目がカッコいい。強そうなものに憧れる。X JAPANって全てを兼ね備えていたんですよ。強そうだし、カッコいいし、曲も良いし、美しいし。
——静と動というのがX JAPANは両方あるじゃないですか。激しさも美しさも。
僕はそこを目標というか、原点にずっと音楽活動をやっているんです。美しさはあるけど凶暴性というか。凶暴性ってそれが喧嘩とか、暴力じゃなくて、サウンドの暴力なんですよね。それってすごい人に力を与える。それとパフォーマンス。僕はドラムじゃないけど、YOSHIKIさんのパフォーマンス見て人よりもすごいなって思うところがあって、YOSHIKIさんは全身全霊で一発一発叩いている。そこに魂が揺さぶられて。じゃあそれを僕はベーシストで一音一音奏でて、「あぁ、KISAKIの音だ」って分かるような音作りとかは当時意識していましたね。ベースの音がデカいとかうるさいとか言われてましたけど。「キミのバンドは音がデカすぎる」ってよく言われていましたね(笑)。ライブハウスなんだからデカくてナンボでしょ?って感じですけど。家で音楽やってるわけじゃないし。ライブハウスは皆で音で狂える場所なんだから。だから日頃のストレスを吐き出せるように、それのぶつかり合いがなされてこそ一人前のライブパフォーマンスなんだと思うんです。
——今のバンドって良いもの作れば売れるでしょっていうのもあるんですけど、バンドや曲が見つからなければやっぱり意味は無くて。その両方を出来るバンドは少ないと思っていて。それをKISAKIさんはやってきたんだなって。でも未散さんおっしゃっていたんですよ、KISAKIさんを真似れば成功すると思ったって。
そう言ってくれるのは嬉しいことですね。未散とも付き合いは長いけど、出会ったときにめっちゃ未散がすごく丁寧に挨拶してくれたんですよ。それがきっかけで音源を聴いて、かっこよかったんですよね。浦和ナルシスだったかな。終わってから未散のバンドだけがフロアーに残ってデモテープをくれたのがきっかけ。
——ジャンルというか、色は違いますよね?
いや、当時は未散はダークだったんですよ(笑)。ダークで未散もベーシスト。ベースのスタイルも結構僕と似ているところがあったんですよね。「僕のこと意識してんのかな?」って(笑)。そこから仲良くなって、彼もLOOP ASHをいうレーベルを立ち上げて。今となっては彼もMatinaを羨ましいって言ってくれてたっていうけど、俺からしたら未散が新しいカルチャーを立ち上げたわけで。俺らは俗にいうTHEヴィジュアル系、コテ系のバンドしかいなかったけど、未散のレーベルはオサレ系というか。なるほど、こういうのもヴィジュアル系と呼ぶんやって(笑)。その中には当時蜉蝣とかも居たりして。一緒にカップリングツアーとかやったりしましたね。未散の見つけるバンドが個性的なバンドが多くて。
——未散さんはかっこいいバンドが出来る自信はあったらしいんですけど、今これだけバンドが溢れていたらカッコよくても売れない。じゃあ売れているバンド、レーベルを研究してってなったらKISAKIさんだったようです。
常に一緒に居たり、レーベル以外のアーティストでも、今でもですけど何かあったら未散から電話が鳴るんですよ。彼もやっぱり僕と同じような経験しているからすごく分かり合えるんだなって思うんですけど。
——意外だなって思ったのが、UNDER CODE PRODUCTIONの面々って、揃ったらまぁ迫力ある方々じゃないですか。カッコいいはもちろんあるんですけど、イカついというか。対して、未散さんのLOOP ASHは華やかというか。そこが仲のいいレーベル同士になったというのが不思議だなと。
本当に化学反応だと思いますよ。SHOXXがきっかけだったんですけど、SHOXX WAVEをやるってなって。僕らからしたらメジャーに近いようなバンド5,6バンド集まってやるっていうような感じだったんですけど、それをやってもらえるってことは僕らも認めてもらえるようになってきたなって。一緒にめちゃくちゃなスケジュールを組んで、レーベルのツアーとかもあったんで、楽屋で一緒にブックレットの写真を撮ったり。今思えばよくできたなという感じの日々でしたけど。
——未散さん以外にレーベルに影響与えた人物って他に居たんでしょうか。
SoleilのKAIKIさんもそうだし、アナーキストレコードのKENZIさんもそうだし、僕はそこで過激性を勉強させてもらったんですよね。ダイナマイト・トミーさんが楽屋にいきなり現れたときは流石にビビったけど。UNDER CODE PRODUCTIONもMatinaもトミーさんの力を借りているんですよ。憧れた人は圧倒的にYOSHIKIさんですけど、レーベルにおいて助けてもらったのはやっぱりトミーさん。それもやっぱり元々僕が一緒にやっていたバンドメンバーがDIR EN GREYで、YOSHIKIさんにプロデュースされていて。でも、トミーさんは僕のことも目にかけてくれて。だからすごく感謝していますね。ぶっちゃけトミーさんは怖い人だけど、すごくバンドのことを考えてくれているんですよね。
「KISAKI」という名前を、アーティストを生かすも殺すも自分次第でやっているんで。
それを潰さないように。
——ヴィジュアル系にハマるとなかなか抜け出せませんね。
それがまた魅力。狭い世界ってよく言われるけど。結局はスポーツでも一緒なんですけど、多種多様な世界になっていって、ヴィジュアル系もそれで成立しているんで。
——今流行りのメン地下、メンコン、それこそ昔にはホスト業界にもヴィジュアル系ホストというのもありました。勿論人によって愛があるがゆえに認められないという人も居ます。でも、メイクをして、ヴィジュアル系というジャンルが生まれ、かつそのジャンルがメジャーになっても残っており、これは日本独自のカルチャーです。これはもっと誇っていい事だと思うんです。
誇れるバンドは沢山いるんです。だから、世界に向けて発信していくバンドも居るし、海外のファンの方って日本語もしっかり勉強して音も聞いてくれるし熱量が凄いんですよ。別に日本が悪いってわけではなくて。国民性ですよね。僕はフランス、アメリカ、台湾、中国とかいきました。僕自身としていつ終わりを迎えてもいいくらいの気持ちでやってるんで。これからまた僕が帰ってくるときまでに、与えられた仕事やプロデュースりを一個一個大切にやりたいと思ってます。自分の年齢的にも一から始めるっていう気持ちは今は無いんですけど、自分がやってきた事を大切に、KISAKIというアーティストを生かすも殺すも自分次第だと思うので、それを潰さないように。それまでは自分磨きをやっていきたいと思います。
——KISAKIさんって今までお会いしたバンドマンの中で一番人間らしいというか。
感情表現は人よりも分かりやすいと思います。僕がMAKEという記念すべき一周年を迎える表紙に表だった活動をしていない僕を選んでもらえたのかっていう意味も込めて、このいま改めて盛り上がってきているヴィジュアル系というものをもっともっと応援する側になりたいんです。
当インタビューは2024年12月に本誌掲載されたものです。
Writer:茉奈佳 / Photographer:尾藤 能暢 / Hair&Make-up:A・DO / hair maintenance:hiko(UNDIVIDE) / body maintenance:曽田 琢朗(LIGHT FIT) / styling:峰岸 祐介 / 衣装協力:FranCisT_MOR.K.S.・STRUM・gunda