自分の名前でやるということは、誰のせいにも出来ない。
生誕50周年祭にして、ソロ初となる姫路凱旋ワンマン[仮面舞踏会 ~RETURN OF THE CHARISMA~]を姫路Betaにて開催するmichi.。姫路で育ち、現在のソロ活動に至るまでの軌跡と別れ。michi.の半生を振り返るとともに、未来への展望を存分に語っていただいた。
──今夏、michi.さんにとってはソロ初となる東名阪ワンマンツアー[Road to the Kingdom]が開催されました。また、来る10月12日と13日にはmichi.さんの生誕50周年祭にしてソロ初となる姫路凱旋ワンマン[仮面舞踏会 ~RETURN OF THE CHARISMA~]が姫路Betaにて開催されることになっております。思うに、この界隈において堂々と“生誕50周年”と掲げるのはなかなか珍しいことでもありますよね。
自分の中では、実を言うと何年も前から決めてたんです。50歳になったら年齢を公開しようって。まぁ、特に長く応援してくださっいてるファンの方たちは僕が大体いくつぐらいかはわかっちゃってたと思うんですけど(笑)、ここまではなんとなくヴィジュアル系あるあるで伏せてた感じだったので。自分にとってはこの50歳という節目で、そこをきちんとクリアにしておきたかったんです。
──なんでも、10月に開催される姫路凱旋ワンマン[仮面舞踏会 ~RETURN OF THE CHARISMA~]については、michi.さんが本格的にヴォーカリストとしてのキャリアをスタートさせたバンド・MASCHERAのカヴァーのみでセットリストを構成される予定なのだそうですけれど、そのMASCHERAが始動したのは92年でした。ということは、既に32年もの間michi.さんは第一線で歌い続けて来られたことになります。これだけの期間を経てきたとなると、歌に対しての姿勢にも変遷があられるのではないですか。
やっぱり、それは時期によっていろいろと違ってきてると思います。たとえば、一番最初にインディーズでMASCHERAを始めた頃は自分の中でコンプレックスと闘っていた部分が相当ありました。今思うと、あの頃の自分は歌に対してもそうですし、将来の夢に対しても、人一倍の強い執着を持っていましたね。
──確か、わたしが初めてMASCHERAのライヴを拝見させていただいたのは95年11月の目黒鹿鳴館ワンマンだったように記憶しているのですが…当時からmichi.さんの歌唱力は圧倒的で、パフォーマンスとしての完成度も高く非常に驚かされるばかりでした。そのmichi.さんがコンプレックスを抱えていらした、というのは少し不思議なお話です。
僕の父はオペラ歌手をしていましたし、兄も歌が上手くて、そもそも自分がバンドに興味を持ち始めたのも兄からの影響が大きかったんですよ。
──兄上のTSUKASAさんは、かつてTSUKASA FANTASYとしての活動をされていたこともありますし、2003年にはmichi.さんとのT.M.ファンタジーなる兄弟ユニットを組んでマキシシングル『情熱は赤い薔薇』をリリースされたこともありましたっけ。
懐かしいですね(笑)。うちは兄だけじゃなく家族全員がたまたま歌の上手い家系で、自分はその中だと一番ヘタだったんです。それが凄いコンプレックスで、悔しくて、とにかく歌を始めた頃はもうひたすら練習しまくってました。表向きには「何も練習なんてしてないで。俺は天才やで!」っていう空気感を醸し出しながら、そういうキャラ演出をずっとしてましたけど(笑)。これは今だから言えることです。
──なるほど。わたしはその演出に騙されていたクチということになりそうです(笑)。とはいえ、あの頃からmichi.さんがヴォーカリストとしてずば抜けて突出した才覚をお持ちだったことに間違いはありません。声量や歌唱技術だけでなく、歌詞を伝える力や場面を描き出す表現力もすこぶる素晴らしかったですもの。
それがですね。これまた今だからこそのタネ明かしをしてしまうと、当時は1曲の中でフレーズごとに声色を使い分けるみたいなこともよくやっていましたが、あれもまさにコンプレックスを隠すために生みだしたワザだったんです(笑)。なるべく「上手い」って思わせるようなギミックとかフックとして、そういうことをやってた部分がありました。
──だとすると、そうした初期の頃から比べると近年はニュートラルに歌うことも出来るようになって来ていらっしゃる、ということなのですかね。
きっとそういうところもあると思います。あと、僕はずっと独学で歌の練習をしていたんですけど、数年前に声帯嚢胞が出来て声帯の手術をしたことがあったんですね。その前後くらいからは正しい発声法というものを身に着ける必要性を感じて、長く歌い続けていくためのボイストレーニングを基礎からしていくようになりました。
──ある程度のキャリアを積み、自身のスタイルも固まっていた中で、あらたに基礎から学び直すというのは…非常に難しいことだったのではないですか。
野球選手でも故障してからフォームを変えたりする方がいらっしゃいますし、そこから安定するまでに時間がかかってしまうような例ってありますよね。歌もどこかそれに近いところがあるのか、まずはそれまでの自分のフォームを忘れるところから始めて、次に新しい歌い方を1からたたき込んでいく必要がありました。しかも、自分の場合は活動をしながらそれを並行してやっていったので、昔から応援してくださっているファンの方々の間では「歌い方を変えたみたいだね」とか「声が少し変わったよね」とよく噂になっていたみたいです。みなさんにはそれだけご心配をおかけしていたんだと思います。
──もっとも、そのシビアな時期を乗り越えることでmichi.さんは今現在のより進化したヴォーカルスタイルを獲得されることにもなりました。ちなみに、今年7月にリリースされたDER ZIBETのトリビュート・アルバム『ISSAY gave life to FLOWERS – a tribute to Der Zibet -』で、michi.さんは「マスカレード」というデュオ楽曲の櫻井敦司さん(BUCK-TICK)が歌われていたパートをカバーされていらっしゃいまして、ISSAYさんのパートを歌われていたtezya (tezya & the sightz / Euphoria) さんとともに、秀逸なヴォーカリゼイションを聴かせてくださいました。声だけでシアトリカルな空間を生みだしてみせるあの素晴らしい説得力には、本当に鳥肌がたったほどです。と同時に、あの表現につながる素養自体はMASCHERAのファーストアルバム『悪徳の栄え』でも、台詞入りの「サヨナラ」で早くも発揮されていたのだなと再確認させていただいた次第です。
根源をたどっていくと、結局そういうシアトリカルな歌い方に関しては自分の父親がオペラ歌手をやっていたところにつながっていくのかもしれません。まだちっちゃかった頃には、実際に生で父親の出演していたオペラを観たこともありましたし。そういった環境で育った影響もあり、自分は劇的に歌うこと自体が単純に好きだったんだと思います。
──今さらではあるのですが、つまりMASCHERAというあのバンド名もオペラの演目である「仮面舞踏会」を意識してつけられたものだったということですか。
結果的にそこもつながった、ということなんです。それこそマスカレード、仮面舞踏会みたいな世界観はもともと好きで、ちょうどバンド名をどうしようか考えている時期にテレビでたまたまヴェネチアのパレードの様子を観ることがあったんですね。そして、そこで使われている仮面の名前がMASCHERAだと知って「これだ!」となりました。
──MASCHERAは1992年から2000年までの8年間、シーンの中で唯一無二な存在感を放ち続けたバンドでした。2012年には1夜限りの限定復活ライヴを渋谷・O-westで開催されたこともありましたけれど、ライヴバンドとしてみた時のMASCHERAには“まずヴォーカルが圧倒的で、各パートも凄腕、そのうえ楽器隊は全員歌まで上手くてコーラスワークも完璧”という特徴もありましたよね。
確かに。なんなら、歌はドラムのTOMOが1番上手いんちゃうか?というくらいに上手かったですねぇ。たまにみんなでカラオケ行ったりすると、特にHIROとTOMOはめちゃめちゃ綺麗なハモりを聴かせてくれるんで(笑)、僕はそれを聴くのが大好きでした。
──なお、歌が上手いということで言えば。コロナ禍にはmichi.さんにとっての古巣でもある姫路Betaを救うために、Psycho le Cémuのseekさんが音頭をとるかたちでチャリティ・コンピレーションアルバム『VERSUS FATE』が発表されまして、そこにはTRANSTIC NERVE(現・defspiral)、DEVELOP=FRAME、ILLUMINA、そしてMASCHERAの名曲たちが集約されることになりました。あの1枚を聴いて実感したのは、なんといっても姫路コネクションの持つ高いブランド力です。1990年代末期、名古屋や関西をはじめとして日本の各地にて新潟、仙台、広島、九州など有名ご当地バンドが群雄割拠な状態でしのぎを削りあっていたわけですけれど、姫路バンドはとにかく揃いも揃ってヴォーカルがやたらと上手い、という傾向があったように思います。
いやほんと、それはありましたよね。出てくる後輩、出てくる後輩、みんな歌が上手いから僕もびっくりしてました(笑)
──もしや、姫路には何か特殊な土壌でもあったのでしょうか?
今はバンドも少なくなっちゃってますし、それについてはBetaの店長も嘆いてたんですけど、当時の姫路で音楽が盛んだったのは事実だと思います。というのも、その頃の姫路市長がバリバリの音楽好きな方やったんですよ。そのせいなのか、いろいろ音楽イベントも多くて、姫路城で毎年やる“お城祭り”では1日かけてジュニア部・シニア部に分けてのアマチュアバンドのコンテストが野外ライヴ形式で行われてました。で、そのための予選オーディションを姫路Betaで行ってたんです。
──昔、そのコンテストについては雑誌『バンドやろうぜ』の取材で1度観に行ったことがあります。そのうえ、当日の夜には[姫路城スーパーライブ’99/SWEET TRANCE 1999 in HIMEJI]というイベントも開催されまして、そこにはPIERROT、Plastic Tree、La’cryma Christi、SHAZNAが出演しておりましたね。
まだフェスが日本には根付いてなかった頃に、姫路がそれを行政として主導してやってたっていうことですよね。当時の姫路市長はLOUDNESSを姫路文化センター大ホールに招聘して、市民に入場無料でライヴを開催したことがあるくらいなので、音楽文化の振興には相当な力を入れてたんだと思います。
──姫路Betaまわりバンドに関しては、歌のみならず音楽的にもしっかりしていることが多かったと思うのですけれど、そこにも何かしらの理由はあったのでしょうか?
Betaの田中社長が音に厳しい人やった、っていうのも大きかったと思います。ライヴのたびに社長の批評を訊きに行くっていうことをどのバンドもしてましたし、みんなその厳しさに育てられたところは絶対ありますね。社長から指摘されたことを次のライヴに活かす、っていうことを重ねてたんですよ。
──そのような鍛練を続けたインディーズ時代を経て、MASCHERAは1997年にシングル『ゆらり』でテイチクエンタテインメントからメジャーデビューすることになりました。今とは違いまだCD全盛期であったあの時代に、メジャーの世界に身を置いたことで得られたことがあったとするならば、それはmichi.さんにとってどのようなことでしたか。
それはやはり、より多くの人の心に刺さるポピュラリティを持った音楽を作っていくということを前提としながら、そこに自分のエゴをどれだけ織り込んでいくことが出来るのか?というアプローチ方法を知れたことでしょうね。もともとMASCHERAはみんなポップな音楽が好きな一方で、けっこう演奏面や作曲面でプログレッシヴなことをするのが好きなところがあったりしたんですけど、メジャーデビュー以降はその部分をさらに人からは一見わからないようにしていくようになったんですね。当時のアレンジャーさんやプロデューサーの方たちから、僕はそういうところを凄く学ばせてもらいました。
──ただし、傍目からするとあの当時のMASCHERAはメジャーの世界で必死に闘っているようにも見えていました。
それは若さゆえ、という部分もあったんだと思います。自分が未熟だからこそ、立ち向かおうとしている強い敵の力を測り切れなかったというか。根拠もないのに「自分の方が優れてる!」っていう自信を持っていたし、そこから生まれるジレンマと闘ってたのは事実ですね。そこものちのち時間が経ってからようやくわかったことで、全て自分にとっては良い経験になったなと思ってます。
──そうしたMASCHERAでの活動に区切りがついたあと、michi.さんはS.Q.Fの名でソロプロジェクトを起ち上げられましたよね。その際、サポートギタリストおよびメインコンポーザーとして参加されたのは、michi.さんが高校時代に組んでいたというEVIL EYES時代からの交流となるILLUMINA・NAOさんでした。また、キーボーディストとしてはDEVELOP=FRAMEの鳴瀬シュウヘイさんが参加されていた時期もありましたが、michi.さんがあの時点でいわゆるソロ活動ともバンドとも異なるS.Q.Fとしての活動を選択された理由とはどのようなものだったのでしょうね。
MASCHERAが解散になった時、メンバーに対しても、ファンに対しても、僕の中には「解散させちゃって申し訳なかったな」というような後ろめたさがあったんです。まぁ、これも今だから言える正直な当時の気持ちですね。そして、実はあの頃ってレコード会社からも事務所からも「君だけここに残って一緒にソロヴォーカリストとしてやらないか」というお声掛けはいただいていたんですが、自分だけ良い思いをするようなことは出来ないということでお断りさせてもらっていたんですね。そういう経緯があったこともあって、MASCHERAの次の活動を始める時にはあまりソロという部分は強く打ち出さないようにしながら、S.Q.Fというプロジェクトを始めることにしたんですよ。あと、ちょうどその頃って個人的にNine Inch Nailsにハマってよく聴いてたのも理由のひとつではありました。正式なメンバーはトレント・レズナーだけやけど、アーティスト名はNine Inch Nailsみたいな。それが良いお手本になったところもありました(笑)
──S.Q.Fではソロ活動ともバンドとも異なるスタイルであることを最大限に活かしながら、作品ごとに実験性の高い音楽活動を展開されていた印象が強いです。
2000年から2018年にかけてと活動期間も長かったですし、アルバムごとにテイストを変えていくという基本コンセプトもあったので、音楽的にはなかなか何々系と括り切れないような活動を常にしていけていたところはS.Q.Fの特徴のひとつでしたね。その分、音楽的に吸収が出来たことがたくさんありました。
──そこから、2018年に入ってmichi.さんはS.Q.Fでの活動を終了され、ギタリスト・KOJIさん(La’cryma Christi/ex.ALvino)と新ユニットとなるALICE IN MENSWEARでの活動を始められました。おふたりの馴れ初め自体はインディーズ時代にまでさかのぼるはずで、仲が良くていらっしゃることは存じ上げておりましたけれど、一緒に活動をされることを知った時には少しばかり意外に感じました。
でしょうねぇ。僕もまさか一緒にやることになるとは思ってなかったです(笑)
──となると、最初に話を切り出したのは…
KOJIからでした。彼に誘われる前から、僕がコンスタントにやっていた[Caraml Vox]というアコースティック・イベントにはサポートでよく出てもらっていて、そこでまた距離がぐっと縮まったっていうのは切っ掛けとして大きかったかもしれないですね。もちろん、インディーズ時代からの知り合いではあったし、お互いにデビューが決まって上京したあたりはよく遊んでたりもしたんですけど、デビュー後はそれぞれ忙しかったこともあって、ちょっと疎遠気味になってたところもあったんですよ。その後、Crack6のMSTRが主宰してる[Crazy Monsters Halloween Party]でALvinoとタイバンするようになったりして、そこから[Caraml Vox]のサポートを頼んだことがALICE IN MENSWEARにつながっていったんだと思います。
──ALICE IN MENSWEARでKOJIさんと過ごした日々は、michi.さんにとって本当にかけがえのない日々であったのでしょうね。
僕はそれまでもストイックにやってたつもりだったんですけど、KOJIがさらにストイックな人だったんで、僕は彼から何時も刺激を受けてました。ひとりでS.Q.Fとしてやっていた間は自由だったかわりに、ケツを叩いてくれる人が少なくなっていたのも事実だったんで、一切の妥協を許さないKOJIと一緒にやるようになって、あらゆることに対しての意識がそれまで以上に磨かれることになったんですよ。彼は自分のギターに対しても厳しかったし、僕の歌に対しても奇譚のない意見をいろいろくれて、もっと探求すべきことがあるんだということを気付かせてくれたんです。音楽のことだけじゃなくて、いわゆるファンサービスの在り方というんですかね。KOJIはファンの方々のことも常に考えているタイプの人間だったので、そこについても彼にはたくさんのことを教わりました。
──そのKOJIさんが病に倒れられてからの日々は、むろんmichi.さんにとっても厳しい試練の連続であったことでしょう。心身ともによく乗り越えられましたね。
さすがに最初は…受け容れられなかったです。嘘でしょ??みたいな。病気のことを告白された時点ではまだまだ元気だったし、絶対に治ると信じてましたから、実際に別れに直面した時のダメージはやっぱりデカくて。ALICE IN MENSWEARを始めてからずっと思ってたのは、KOJIとの相性が凄く良いなっていうことだったんですよ。KOJIも「このユニットが解散したら、もう誰ともやらへんわ」と言ってたし、僕も同じことを思ってましたからね。KOJIとやることがなくなるんだとしたら、もうユニットもバンドも別にいいやっていう感じやったんでね。だから、そういう最高のパートナーを失った時の虚無感っていうものは想像していた以上にしんどかったです。正直なことを言えば、引退の言葉が頭を過った時期もありました。
──そのお気持ちはわかるような気がします。
ただ、彼が亡くなってからも活動は続けていましたし、KOJIから「michi.は歌い続けてね」と言ってもらっていたので、その言葉が自分にとっての拠り所になっていたところもあったんですよ。彼との約束をひとつひとつ果たしながら、たとえばそれはファン旅行だったり、お互いの誕生月である4月と8月に毎年やっていたライヴだったりするんですけど、それを苦しみながらも約束を果たすために目の前のやるべきことを乗り越えていくことで、だんだんと「まだ続けられるかな」という勇気を少しずつ持てるようにいきました。その過程があったからこそ今があるんです。
──KOJIさんのことですから、そこまでのことを見越してくださっていたのかもしれませんね。そして、1周忌にあたる2023年春に開催された[KOJI追悼 ALICE IN MENSWEARワンマンライブ「THIS IS WONDERLAND」]では、KOJIさんの遺されたツインギターサウンドシステムを駆使したパフォーマンスが繰り広げられ、当日は彼の立っていた上手ポジションが往時のとおりのしつらえになっておりました。あの日のあの場所には彼の存在を確かに感じましたし、michi.さんのステージングもまた圧巻でした。よくあれだけのライヴをやり遂げられたものだ、とあの夜はひたすらに感動した次第です。あのライヴを無事に終えられたことは、michi.さんにとってもひとつのけじめになられたのではないでしょうか。
2022年の4月15日にKOJIが亡くなって、そのことが公式に発表となったのは22日でしたからね。そして、KOJIの誕生日である4月17日の時点ではまだコロナ禍だったというのもあって、まだその件は伏せたまま[3周年&KOJI生誕記念「Undress the Universe」]というタイトルで配信ライヴをやったんですよ。その次の8月からに関しては有観客でのライヴをやることになったわけなんですけど、俺だけがステージに立っていいものなのか?という葛藤はどうしてもあったんです。でも、やっぱりその時にも勇気づけてくれたのはKOJIの「michi.は歌い続けてね」というあの言葉でした。もちろん、ALICE IN MENSWEARのライヴとしてやる以上はKOJIが元気にギターを弾いてた頃と同じようにステージングしなければ決着はつかないと思ったので、特に翌年の4月ワンマン「THIS IS WONDERLAND」は追悼とタイトルについてはいましたけど、来てくれたみんなが「楽しいライヴだったね」「KOJIくんいたよね」って思ってくれるようなものになるように!という思いであの日はやりきったつもりですし、実際にファンのみんなからもそういう感想をたくさんいただけたので、自分の考えは間違ってなかったんだな、頑張ってやって良かったな、と思えましたね。
──かくして、michi.さんは2023年1月から遂にソロ活動を開始されました。ここまでの32年間、MASCHERA〜S.Q.F〜ALICE IN MENSWEARでの活動を経験されてきたうえでの初ソロワークスだけに、いよいよ踏み切られた時にはことさらの覚悟があられたのではないですか。
逃げ道がもう全くないな、という気持ちにはなりました。自分の名前でやるということは、誰のせいにも出来ませんからね。そういう覚悟は当然あります。
──S.Q.F時代にもセルフプロデュース体制ではあられましたし、もともとmichi.さんはMASCHERAのインディーズ時代からデザインなどのグラフィックもご自身で手掛けられていましたけれど、なんでも現在は動画編集までされるようになったとのことで、より全体的な仕事量が増加されているようですね。
それが、映像編集をやるようになったのもKOJIの影響なんですよ。彼は楽器だけじゃなくPCにも凄く詳しくて、映像編集とかビジネス的な実務作業とかまでいろいろ教えてもらったんです。おかげで自分で出来るようになっちゃった分、以前よりも仕事が増えてるのは事実ですね(笑)。「今はエアロスミスみたいなビッグネームでも、プレイングマネージャー的なことをやってるんだから。現代のアーティストはいろんなことが出来なきゃダメだ」っていうのがKOJIの口癖で、今の僕はそこも彼の意思を受け継いでやってます。
──では、ここで再び10月に開催される姫路Betaでの凱旋2デイズワンマン[仮面舞踏会 ~RETURN OF THE CHARISMA~]についてのお話をうかがうとしましょう。当日はMASCHERAのカヴァーのみでセットリストを構成される予定で、リズム隊には先ほども話題にのぼったHIRO&TOMO(MASCHERA)がサポートで入られるとあって、そのふれこみだけでも尋常ではないスペシャリティ感が漂います。
michi.生誕50周年祭のひとつとして、姫路Betaでのライヴはやりたいと思っていたんですよね。で、せっかく姫路でやるんやったら姫路にいるリズム隊に声をかけてみようかなと思いついて、ダメモトで連絡したら「それ面白そうやん!」っていうことでふたりとも快く引き受けてくれたんです。
──TOMOさんとは、以前S.Q.Fのライヴで彼がサポートをしていた時に会ったのが最後なのですけれども。HIROさんとは今春にILLUMINAのNAOさん、DEVELOP=FRAMEの野口純平さん、TETSUさんと組まれた新バンド・昭和残響オーケストラの初ライヴが東京であり、現場でお会いしましたが相変わらずの面白キャラでお元気そうでした(笑)
あぁ、あのライヴ行かれてたんですか。HIROは普段SNSでちょいちょい見かけるくらいで最近あんまり会ってなかったですけど、なんも変わんない感じはしますよね。TOMOは今回あのS.Q.Fのサポート以来でドラムを叩くことになったって言ってて、ブランクはあるけど今度のライヴのためにコンディションを整えて来てくれるみたいです。
──[仮面舞踏会 ~RETURN OF THE CHARISMA~]というタイトルが冠せられているだけに、おふたりもかなりの思い入れを持って臨まれるに違いありません。
michi.ソロではMASCHERAの曲も普段から何曲かは歌ってますけど、やっぱり姫路Betaでやるからにはメジャー時代の曲たちだけでなく、インディーズ時代にあの場所でやってたようなアンダーグラウンドな雰囲気を感じてもらえるようなライヴにしたいと思ってます。昔のことを知ってる人たちには、ぜひ懐かしい空気感を久しぶりに味わってもらいたいですね。逆に、メジャーになってからの曲だと姫路Betaでやったことない曲がけっこうあるんで、それを初めてやるのも面白いかなと思ってるんですよ。ちなみにこれ、サブタイトルが“カリスマの帰還”っていう意味じゃないですか。自分でそんなこと言うんかっていう話なんですが、これは昔Psycho le CémuのDAISHIとか後輩の子らが俺のことをよく「姫路のカリスマ」って呼んでたところから来てるんです。
──わたしもその言葉はDAISHIくんが言っているのを聞いたことがあります(笑)
ほんと、当時はあまりにもしょっちゅう言われてたから「こいつ、俺のことおちょくっとんのかな」って思ってたこともあったんですけどね。でも、今回はそこを逆手にとるかたちで自ら言い切ってしまおうと(笑)。というわけで、今度の姫路Betaでは大変恐縮ながらカリスマとしてやらせてもらいます。
──それでは、最後にもうひとつうがわせてください。“生誕50周年”の節目を迎えられた今、この先に向けた将来的ヴィジョンについてはどのようにお考えですか。
ここまで50年生きて来られたので、あと50年は生きたいなと思ってます。本音の部分では、もし歌えなくなったらという想像するのが怖いから、なかばしょうがなしに必死で頑張ってる面ありますけど(笑)、自分にとって歌っていくことはKOJIとの約束を果たすという意味もありますしね。自分の声や歌を求めてくれる人がいるということも大きいし、弱ってる時にはみんなからの気持ちやみんなの笑顔が僕に力を与えてくれるんです。そういう想いに対しては、出来る限りこれからも応えていきたいんですよ。ちょっとぶっ飛んだ目標にはなるのかもしれませんけど、僕は冗談じゃなく本気でこの先の50年も現役で歌っていけるようにしたいと思ってますので。これからもよろしくお願いします!
Writer : 杉江 由紀 / Photographer : 小池 和正 / Hair&Make-up:我那覇 智 / Styling:tosHiko
【LIVE SCHEDULE】
michi.ソロ 2024 ラストワンマン「Awakening Eve」
2024年12月7日(土) 赤羽ReNY alpha
OPEN 16:30/ START 17:00/ 配信START 16:50
【チケット・詳細】
有観客チケット
https://unitedproducts.zaiko.io/item/367212
配信チケット
https://unitedproducts.zaiko.io/item/367213
【総合インフォメーション】
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