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【本誌巻頭特集】KISAKIスペシャルインタビュー

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永遠に刻まれる旋律、『破戒』がもたらす終焉。
歩み続けた悠久の刻を語る――

伝説的バンドPhantasmagoriaや凛、Matina・UNDER CODE PRODUCTIONの代表など、多彩に活躍するKISAKI。今年でバンド活動30周年を迎え、東京・大阪でのBEYOND THE KINGDOMライブ、アルバム3部作の発表など、メモリアルイヤーを精力的に活動し、12月27日にはミニアルバム「Eternally」のリリースも控えている。本誌では、そんな彼の音楽人生30年を過去から現在まで振り返ってみた。
筆者である私も彼の音楽を聴いてきた、いちファン。話を聞くのが楽しみで仕方がない。


KISAKIの原点

僕の友達がドラムを始めた時に、ベーシストが欲しいと言われて誘われたのがきっかけですね。単純に爆音出したいっていう(笑)。
初めて楽器を触ったのが中学校の終わりぐらい。一緒にバンドをやるというわけではなく、ただお遊びで弾いているだけでしたね。正直最初は音楽が好きだったというわけではなく、サッカーや釣りなどアクティブな子供でした(笑)。
音楽は母親が掛けていた徳永英明の曲をきっかけに好きになって、ひとりで何度もラジカセで聴いていましたね。その頃はイチ視聴者で、音楽に携わろうなんて考えてもいなかったし、なんなら普通に就職して、結婚して…。ザ・普通の人生を送れればいいと思ってました(笑)。自己主張も苦手でしたし。
そんな普通の学生だった俺がテレビでX(X JAPAN)を観た時の衝撃がすごかった!やっぱりその当時ってワルがかっこいいみたいな年齢だったので。
あの見た目にはワルも美しさもかっこよさも両方兼ね備わっていたわけで。さらに演奏上手いし曲もかっこいいし…。一気にXの虜になって。中でもYOSHIKIさんに見入ってしまって。こんなにスマートな人があんな激しいドラムを叩けるなんて!と。当時は一緒に演奏していたドラム担当の友達しか見ていなかったから。
それから一度YOSHIKIさんが通ってきた道を自分なりになぞってみようと思い、YOSHIKIさんが影響を受けたであろうKISSなど、聴き漁りました。ただ、それでも自分がバンドをやりたいとは思わなかったし、こんなんは自分では無理だと(笑)。
高校1年生になってやっと親にベースを買ってもらえて、家で練習しているうちにだんだんと楽しくなってきて。それまでは友達からの借り物ベース(笑)。そこからバンドをやりたいと思ったし、毎日ベースの練習をするようになったね。
じゃあバンドをやろう!ってなったから、メンバー募集をし始めたんだけど、意外にすんなり集まったし、うまくパート分けもされて。じゃあこの4人でやろうってなって。そこから人生初のバンドのために髪を伸ばし始めました。
ある程度形になった時に和歌山のオールドタイムにライブに出るにはどうすればいいですか?って聞きに行って。ライブをやるためにオリジナル曲も作っていかないと…と思っていたんだけど、作り方もわからず。
その時に店長にいろいろとアドバイスをもらって。未熟だったけど、自分なりにメンバーと相談しながら初めての曲を創り上げました。録り方もわからないままにラジカセに録音してましたけど、当初はただの雑音でしたね(笑)。
家ではあまり練習していなくて、学校終わってからメンバーとスタジオに入って、土日以外は毎日入ってたよ。コピーバンドはしたことがなくて、初めて組んだバンドでもオリジナル曲をやってたね。

店長から「コピーでお金取るのか?カッコ悪い!」と言われて。その当時はまだ学生だったので、「そういうものなんだ、確かに人の曲でお金取るのは違うな」と思い、見よう見まねで曲を作っていましたね。
その店長がいい人で「その代わり、夜中だったら何時までもライブハウスを使わせてあげる」と言ってくれて。今そんなこと言ったらアウトだよね(笑)。
そのあとは5曲入りのカセットテープを引っ提げて、まずは自分たちを知ってもらうために配り歩いていました。ちなみにこの段階でまだ初ライブ前(笑)。

そのあと初ライブをやったんだけど、当時和歌山にはヴィジュアル系バンドがいなくて、初めてのライブで100人以上動員することができて。「君たちどこで情報知ったの!?」って感じですよね(笑)。
まだ写真も撮ってなくて、スタジオやライブハウスに貼ってあったフライヤーとか口コミで広まったみたいで。当時は何も知らないから100人動員でも驚きがなくて、それが普通なのかな…と。
でも店長は全然褒めてくれなくて、次は演奏力をもっと上げていこうと…。親身になって俺たちを育ててくれて感謝しているし、もし出会えていなかったら今のように音楽を真剣にやろうと思っていなかったですね。そのライブハウスは俺にとって始まりの地で、大切に思っていたので、最後のPhantasmagoriaのツアーでも組み込みました。

いつも焼肉を奢ってくれていたから、俺たちは「焼肉おじさん」って呼んでいたっけ(笑)。

やってたよ。ステージに立つ時は絶対にするべきものだと思っていたからね。当時はメイクも下手くそだったけど、すると自分自身のテンションが上がってライブに楽しく臨めたから。
話が飛んでしまうけれど、Phantasmagoriaを結成して途中までは自分でメイクしてたからね。今のメイクさんに出会うまで、メイクしてくれている人をあまり信用していなかったというか(笑)
やっとメイクを任せられるって思える人に出会えたんだけど、あまりヴィジュアル系のメイクをしたことがなかったみたいで…。初めの頃は俺の方が髪の逆立て方や眉を描く位置などを教えていたよ。
「そんなこと言わないでくれ」って言われそうだけどね(笑)。

X JAPANのYOSHIKIさんや hideさんの写真を見ながら、自分で真似てメイクをしていましたね。当時はすでにバンドブームだったから、メイク自体に抵抗はなかったですね。
──当時からステージにかける思いは熱いものがあったんですね!話を戻しますが、そのライブハウスでは定期的にライブをされていたんですか?
月に1度はライブをするようにしていて、毎回100人以上は入るから、そうなるとだんだんと調子に乗ってきてしまって…。
俺たちも当時はとがっていたので、よくライブハウスの店長とは喧嘩してました。高校時代は和歌山でずっと活動していたんだけど、ある時にテレビ和歌山が取材に来て、「スーパー高校生バンド」という形で夕方のニュースで紹介されて、そこからさらに動員が伸びたね。

当時は特にね。ネットもなかったし。ラジオでも大きな反響があったよ。
テレビで紹介された後に当時有名だったピンクサファイアってバンドのオープニングアクトで俺たちのバンドが演奏出来ることになって、初めて1000人以上の前で演奏したけれど、満足のいく演奏はできなかったな(笑)。

和歌山には当時大きなライブハウスもなかったから、その後も今までと同じライブハウスに出続けてたね。大阪とか大きい都市に出て「売れよう!」とかその当時は全然考えていなくて。好きなことをやって、バイトをしなくてもお金は入ってくる状況だったから、その環境に満足してた。そんな環境に身を置いていたから、大学に行くとか就職するとかっていう選択肢は俺の中から消えていて(笑)。
当時は「このメンバーで大阪に進出したい」と考えていたんだけど、他のメンバーは大学進学とか就職することをちゃんと考えていて…。だから卒業式の日に解散ライブを決行したんだけど、俺の担任の先生が観にきてくれたのが印象的だったな。とてもいい先生でライブ後に「卒業おめでとう」と卒業証書をくれた。今でも連絡を取り合っていますね。

そういうことだね。あとは当時のCDショップに行くと地元のアーティストを応援してくれる習慣があって、フライヤーとかも貼ってくれたりして。
俺の知らない間に女子校とかでも話題になっていたみたい。活動1年半の間にテレビに出たり、ホールでライブしたりと貴重な体験もできましたね。結構ファンの子もいて、僕らが高校から出てくると女子高生が待っていて黄色い声援が上がることもありましたよ(笑)。

人生で一番モテたんじゃないかな(笑)。当初は「楽しい」とか「モテたい」みたいな思いでやっていたのが、だんだん動員が増えてくるとそれらが「売れたい」に変わってきて。

和歌山でやっていたバンドが卒業を機に解散して、単身大阪に出た時ですね。両親にも25歳までに芽が出なかったら就職するという約束で大阪に出ました。いろいろなバンドに加入しては辞めてを繰り返して、GARDENというバンドをやる頃には、動員も増え始めました。
そして1年ぐらい経った頃に当時人気があったステラマリアというバンドに加入して、さらに動員が増えましたね。その当時対バンした中に現DIR EN GREYの京がいて、彼とどうしても一緒にバンドをやりたいと思っていました。

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大阪で掴んだ成功と苦悩

歌声もそうだし、存在感もそうだし、メイクもとても上手くて。俺が求めていたボーカルの理想像をはるかに上回っていたね。
歳を聞いたら同級生というのもあったから、一緒にバンドをしたくてガンガンアタックしてました。当時は結構価値観も似ていたと思うし。それからいろいろなバンドから優秀なメンバーを引き抜いて結成したのがLa:Sadie’sです。そこで一気に俺の中の音楽シーンが変わりましたね。

しっくりきていました。本当に理想通りのバンドができたと思っていました。でもその頃の俺ってまだ18歳なんですよ。ライブ活動はすごく良かったんだけど、メンバーのケアが全くできてなくて。
いいライブをたくさんやることがメンバーに喜ばれることだと思っていたけど違いましたね。メンバーに休む期間を与えずに、その中でレコーディングの期間を決めたりしていたので、メンバーにはすごいストレスと負担を与えていたのだろうな…と。だから僕は1年でメンバーに脱退を告げられたのだろうと。
せっかく理想的なバンドだったのにもう終わってしまった…、もうダメかも、と。ただ、リミットの25歳まではまだ時間があったので、次に作ったバンドがMIRAGEですね。
La:Sadie’s時代からのファンもいてくれたので、MIRAGEは初めから動員がある程度ありました。
その勢いを落とさないために、MIRAGEはいきなり全国ツアーから始めました。La:Sadie’s解散から2ヶ月後には全国ツアーが始まっていましたね。誰もやっていないようなことをやろうと思って、デモテープ5000本プレスして、全会場で無料配布しました。それが「百花繚乱」という曲でした。

当時の人たちが求めていたものとシンクロしたのかもしれないけれど、それで一気に動員が増えましたね。地方に行ってもどこに行ってもお客さんが入るし、当時のテレビ番組のエンディングテーマになったりとか。すごい話が次々に舞い込んでくるようになりました。
さらにはワーナーミュージックからアルバム出しませんか?という誘いもあって、驚きましたね。
でも僕はまだメジャーデビューは早いと思っていたし、自分もYOSHIKIさんみたいにレーベルを運営したいと思って作ったのがMatinaですね。
だから当時、ワーナーミュージックからCDを出した頃にMatinaを立ち上げたんですよ。そうした方が話題性もあるかなと思って。

当初はMIRAGEとMadeth gray’llの2バンドだけが所属するレーベルでした。会社という感覚はなくて、サークルみたいな感覚でしたね。Madeth gray’llのボーカルの翡翠はずっと僕専属のローディとしてサポートしてくれていて、「僕もバンドを組んだら、すぐにKISAKIさんを超えるんで」と言ってましたね。2人でずっと野心を語り合ってました。
Madeth gray’llは初ライブが池袋サイバーというところでやって、いきなり150人動員したんですよ!嘘やろって思いましたね(笑)。
その2バンドがどんどん人気が出てきて、一気にMatinaというレーベルが広がった感じでした。それから僕のレーベルに所属したいというバンドがいくつか出てきて、5バンドくらいでやっていたんですが、さらに巨大化していって、ちょっととんでもないことになってきたぞ…と。これは真剣にレーベル運営をしないといけないと意識が一気に変わった瞬間ですね。まだ、20歳くらいでしたけど。

そうそう(笑)。読者として雑誌で読んでいたバンドと対バンしたり、ライブを観に来てくれたりしたんですよ。えっ、マジですか!ってなりますよね?でもそこでたくさんの繋がりができて。当時テレビ埼玉でインディーズステーションという番組があって、人気のあったアーティストみんなを集めてレクリエーションをする面白い番組があったんです。
その後に各レーベルの代表を集めて情報交換会をしていましたね。

Matinaに所属してくれていたバンド全てを売りたいと思っていました。バンド数が増えてきて俺自身の負担も増えたけれど、レーベル運営が楽しくて。
Matinaの節目、クリスマスや大晦日にはレーベルメイト全員集まってイベントを開催していましたね。
それが自分の思い描いていたもので、エクスタシーサミットなど当時ビデオで観ていたものを小さくても実現できたっていう…。それがMatina presentsだったのかなって思いますね。

だから僕のバンドは短命に終わったんだと思うんですよ。メンバーとの温度差が生まれてしまって。各バンドを早く上に上げたいっていう思いもあって、僕自身も神経質になってしまっていて。
MIRAGEもSyndromeも途中でボーカルが変わってしまったし。当時は「KISAKIバンド3年説」みたいな噂が出来てしまっていて、3年経ったら解散するっていう(笑)。

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