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【本誌巻頭特集】KISAKIスペシャルインタビュー

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Matinaは解散、ゼロからの回帰

バンドが長く続かないという自分自身が嫌になったとの、自分はリーダーに向いていないんじゃないかと思い、一旦ゼロに還ろうと。
バンドをするということがちょっと怖かったというか、音楽も辞めようと考えていました。同時期に体調も崩して入院してしまい、落ちていましたね。
でも入院中にヴィドールのメンバーが、どうしても俺と一緒にやりたいと言ってくれて。じゃあ、ヴィドールのためにもう一度レーベルを作ろうと思い立ち上げたのがUNDER CODE PRODUCTIONでした。
彼らは東京に住んでいたのに毎週俺のために大阪までお見舞いに来て、そんな話ばかりするんですよ。そこまで言ってくれるなら…と。
ヴィドールがその後一気に人気が出て、その当時PS COMPANYと仲良くさせてもらっていて、ガゼットとヴィドールのカップリング全国ツアーをやろうということになって。

今考えたらすごいでしょ。イベントは大成功で、それで一気にヴィドールが全国区になりましたね。
その後も、Matinaに所属していたメンバーが新しいバンドを組むので、面倒を見てほしいと俺を頼ってくれて。俺から離れていったと思っていた人たちが戻ってきて嬉しかったですね。

マネージメント側だけだったんですけど、やっぱりステージに立ちたいなと思い結成したのが、KISAKI PROJECT feat.樹威だったんですよね。このプロジェクトもある程度話題になってくれて、フランスからオファーももらって初めて海外ライブをしましたね。俺の名前が勝手に独り歩きして海外で人気あるんですよって言われることもあって。実際現地に行くと、なぜかすごい神格化されていて(笑)。VIP待遇でした。3000人以上の動員があって、大成功でした。
そういうことがあるとやっぱり火がつくじゃないですか?だからメンバーを探そうと思っていた時にPhantasmagoriaの上手ギターだったJUNと出会ったんですよね。
JUNが「KISAKIさん、一緒にバンドやりましょうよ」と誘ってくれて…、それがPhantasmagoria結成のきっかけでした。Phantasmagoriaは初ライブからすごい動員がありましたね。活動も順調でUNDER CODE PRODUCTIONの3大巨頭バンドになりました。

それもありましたが、JUNとの出会いも大きかったですね。すごい良いギタリストで、作ってきた曲もかっこよくて。俺自身も作曲するけど、やっぱりギタリストが曲を作るバンドが好きだなっていうのがあったので、サウンド的なバンドマスターはJUNでもいいのかな、と思っていました。

やっぱり話題性や目に留まらせる必要があるので、Phantasmagoriaとしては、SHOXXという雑誌の付録としてCDを付けたり、レーベル全体としてコンセプト・衣装には相当こだわっていましたね。それぞれのバンドの個性は出しつつも、全体で見るとUNDER CODE PRODUCTIONっぽいな…とわかるように。なので、全バンドとのミーティングは念入りにしていました。俺は一度レーベルを潰してしまっているので、メンバーの意見をまず最優先で動くようにしていました。
あとは、「大阪でテレビ番組をやらないか?」という話をもらって、俺のレーベルのバンドをゲストとして出してもいいということだったので、好きにやらせてもらいました(笑)。
スポンサーもついたりして、番組の名目でナガシマスパーランドや和歌山マリーナシティでライブをさせてもらうこともできました。だから観客は楽しかったと思いますよ。いろいろな場所で観ることができて。じゃあ、その次はどうするか?ってなった時に、大阪に中央公会堂っていう国の指定重要文化財になっている場所があって、そこでライブできないかな…と。
そこの館長さんに相談に行ったんですけど「物を傷つけたり、壊したら弁償になるけど、ライブするのは構わない」と言ってくれて。だからめちゃくちゃ丁寧に激しくライブしましたね(笑)。

僕らの中では初めはそうは思っていなかったけど、神歌の誕生は大きかったかなと思います。ライブでやって楽しい曲というのは、そこまで考えて作ったわけではないけど。今で言うとバズった感じですね。あとは、3部作としてリリースした神創曲、狂想曲、幻想曲はターニングポイントでした。あの時は各曲、色のある、内容が濃い曲を創ろうと、メンバー同士ディスカッションして、めちゃくちゃ時間をかけましたね。MVもかなりこだわりましたし、ライブをやるだけではなくて、ちゃんと後世にも残るものを創りたかったんです。
アルバムの中の1曲にするんじゃなくて、1曲だけを聴いてもらいたい…という思いでした。この3部作を発表したあたりからさらに新規のファンが増えた手応えはありました。

大きいですよ。自分がどん底に落ちた時にUNDER CODE PRODUCTIONを立ち上げて、Phantasmagoriaを作った当初はKISAKIファイナルバンドと銘打ってましたからね。それぐらいの気持ちでやっていたので、常に本気ですよ。

くるべき時がきた、という感じでしたね。そろそろ(メジャーの話が)こないとインディーズで活動しても同じことの繰り返しで。メジャーでもっとメディアも使って、大きく宣伝してもらいデビューすることは、バンドにとって必要だと考えていました。いつまでも飼い殺しではないですが、そういう状況が嫌だった。
デビューするって話になって純粋に嬉しかったし、俺らもまた新たな動きができるし、新しくみんな羽ばたいていく時だと思っていたね。

Phantasmagoriaでデビューする時は、俺はUNDER CODE PRODUCTIONも続けます、という話をしました。プロデューサーとしても、若手育成とかこれからのバンドを引っ張っていくつもりでした。

そう、大きくする。メジャーデビューは、そのためのお手本だと思っていました。若手の目標にもなるじゃないですか。

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