伝説となった幕引き
──ただ、活動も軌道にのっていたところで…。
そうですね。UNDER CODEがレーベルとして大きく成長していた時に、俺が脱税事件で逮捕・有罪判決を受けてしまって。本当はUNDER CODE所属の3バンド(Phantasmagoria、ヴィドール、12012)揃って卒業してメジャーデビューするはずが、歯車が狂い始めてしまった。デビューの話も白紙になって、今後どうするかをメンバーとも話し合いましたね。
──その時の心境やメンバーに対する思いなどはいかがでしたか?
やっぱり申し訳ない気持ちはすごくありましたよ。しっかり勉強をしてこなかった自分を責めたりもしました。メンバーに謝罪して、みんなはすごく理解してくれましたけど。ただそんな状態で一緒に高みを目指しても士気が下がってしまうかもしれないし、メンバーに迷惑をかけるのは避けたかった。
結果的にバンドは解散することになってしまいましたが、ラストツアーまではしっかりやろうと思って、全国回りました。俺が地元で初めて出演したライブハウス、徳永英明さんを初めて見た和歌山県民文化会館のホール、ラストは活動拠点である大阪の大阪国際交流センターで幕引きをしました。解散ライブをしたことによって、Phantasmagoriaは幻の伝説バンドになれたと思っています。
──他のメンバーも「KISAKIさんが抜けたPhantasmagoriaはありえない」とのことでしたが、ラストツアーにかける意気込み・熱意はどうしたか?
メンバーや自分の未来のためにも、後悔のないツアーにしようという気持ちはありました。最後のツアーは「純粋に楽しもうぜ、楽しんで、みんなでいい思い出を作ろう」それが一番大事だと思っていましたね。だからツアーを回っている時のメンバーの雰囲気は良かったですよ。主要都市の全箇所もソールドアウトして。
──おー!さすがPhantasmagoria!
だから、俺の中では伝説の全国ツアーやったな、って。その前にレーベルメイトで回った「日本制圧」と銘打った全国ツアーもそうだし、当時のレーベル内の雰囲気はすごく良かったですね。だから2005年から2006年にかけては、自分がインディーズシーンで先頭に立ち、引っ張っていたと自負しています。でも最後はPhantasmagoriaは解散、俺は一応、音楽活動を引退するという形になりました。
引退後はレーベルなど会社を運営する勉強をしつつ、さまざまなバンドのプロデュースもしていました。その時にファンの方から署名が届いたりして、東京で1日復活する話が決まって。
やるなら解散ライブから1年後に東京でやろうかと。そのあたりから、また自分のバンドに対する思いが前向きになって、好転していった気がする。2007年の8月31日に大阪で終わったPhantasmagoriaが、みんなの何千通という署名によって…。
──復活してほしい、またやって欲しい、と。
そう。2008年の8月31日に東京でやる、それだけ発表してあった。Phantasmagoriaはメンバーにもファンにも恵まれたバンドでした。その話が決まって発表した少し後くらいに、hideメモリアルサミットの話が舞い込むことになるんですよ。
それは復活がなかったら出来なかったことだと思うんですよ。俺らが最も影響を受けたhideさんの大切なメモリアルサミット。X JAPANも復活して出る、LUNA SEAも一時復活して出る…僕らにとっては夢のようなイベントでした。
hideさんが与えてくれた大切な舞台を、断る理由なんてないので。バッシングも多かったけれど、俺らとしては尊敬する人たちのイベントを盛り上げるため、少しでも貢献したい気持ちと、そんな記念すべきステージに立てる、ありがたさを胸に出演させていただいた。