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【本誌巻頭特集】KISAKIスペシャルインタビュー

KISAKI特集__撮り下ろし写真1

時代の変化へ挑んだ『凛』、そしてレーベルは解体

バンド熱が湧いたというより、その後(Phantasmagoria)に続くバンドがなかなか伸びなかったので。本当ならもっと上に行けるはずのバンドが、思ったような反応が出なくなって、シーンが変わってきたのかなと。コテ系といったものが、だんだん古いものという認識になってきて、おしゃれ系のバンドが流行ってきたなと。
一度自分自身もシーンに戻って体感しないと、バンドに対してこれは指導できないと思いました。俺も一緒にその当時のシーンで戦ってみようという気持ちで「凛」を結成しました。もちろん自分自身がやりたい、とも思っていたけれど、UNDER CODEもっといけるやろ!という気持ちがありました。自分がプロデュースしている側だと、結果だけを求めて怒ってしまう場面もあったので、それはバンドに良くないし。

そう。だから「凛」になってからはけっこう苦しい日々が続きましたよ。僕もUNDER CODE的にも。やっぱりレーベルのイベントをやるとお客さんは入るんですよ。でもピンになると苦しい状態が続く…。その当時は「関西のレーベル=UNDER CODE」のようになっていたので、いろいろなバンドがうち主催のライブに出たいと言ってくれて成立していました。
Phantasmagoriaはお客さんのライブのノリとか気の入りようを考えながらやってきたバンドでした。
凛はそこも大事にしているけれど、自分のやりたいサウンドを徹底しようと思ってましたね。周りから見たらPhantasmagoriaよりも動員は落ちていると言われていたけれど、それに対する悔しさはなかったですね。といっても、もっと聴いてほしい、評価されたいという気持ちもあったので、戦っていた感じではありましたけど。

「凛」の第一章で解体なんですよ、2013年。一度解体してメンバーは僕以外入れ替わって、「凛」第二章になった時は、フリーというか事務所はない状態で活動していました。もう大阪にいる必要もないなと思い、東京に引っ越しました。必死にもがいてさまざまな経験もさせてもらいましたね。
黒夢のトリビュートアルバムに参加させていただいたり、台湾で開催された8000人規模のフェスに出たりとか。それなりに結果は残したと思うし、当時話題になったと思うけれど、自分の思い描いている理想とは程遠かったですね。バンドがダメだったとかじゃないけど、自分が40歳になる2016年のタイミングで解散しました。今後の自分の人生のために諦めた…というか。

周りの同世代がメジャーで活動しているか、もうバンドをやめて普通の生活をしているか、両極端だったので、俺もそこを考えるべき時なのかな、と。
言い方は悪いけれど、ちょっと逃げた、というのもあったと思う。限界を感じてしまって…。
だからちょうど40歳を迎える時に、凛が初ライブをやったライブハウス「なんばhatch」で解散ライブをしました。

UNDER CODE所属のバンドが増えてきたのは良かったんだけど、時代背景かやり方なのか…いろいろなバンドでメンバーの脱退や解散のスパンが短くなってきて。
そういうことがあると、バンドは振り出しに戻ってしまうんですよ。3年かけて作り上げてきたものも、メンバー2人抜けたら本当にイチからやり直しという感覚。そういったバンドをいろいろ見ているうちに、俺のプロデュースは同じことの焼き回しをしているんじゃないか、という葛藤を感じてきたんです。
このまま続けていても、たぶん自分にもバンドにも良くないと思い、UNDER CODEは終わらせようという判断になりました。ちょうどUNDER CODEは10年目だったし、落ちぶれて終わるよりは、有終の美という形で終わらせたいという気持ちも大きかったんです。
それこそPhantasmagoriaの時と同じではないけれど、「日本制圧」ツアーとしてレーベルメイトと全国回りました。
最後は大阪のBIGCATでライブをして、UNDER CODEは2013年に解体したんですよ。

そうですね。最後のツアーは盛り上がったし、同じレーベル同士、バンド同士も仲が良かったですし。

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